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8月7日 殉職赤十字救護員慰霊祭

殉職救護員慰霊碑「和魂」(にぎたま)前で黙祷と献花を・・・

第2次世界大戦では、日本赤十字社千葉県支部からも救護員として20班、447人の看護師等が戦地に派遣されました。

そして、不幸にも銃撃や病に倒れ犠牲となりました。

毎年、千葉県支部の敷地内に建立された、殉職看護師の慰霊碑「和魂」(にぎたま)の前で、看護師同方会のみなさまとともに白菊を献花し、慰霊を行うとともに、ジュネーブ条約普及への誓いを新たにします。



(日本赤十字社の戦時救護活動)

日本赤十字社(以下日赤)の戦時救護活動は、遠く第一次世界大戦(大正3年)にその歴史が始まりました。その後、満州事変(昭和6年)、上海事変(昭和7年)、日支事変(昭和13年)、その後、昭和16年12月、真珠湾攻撃に始まった太平洋戦争と、昭和20年8月15日の終戦までの長い年月、国内外で日赤の戦時救護活動が続けられました。特に先の大戦では、日赤は総力を挙げて救護活動に携わり、その規模や犠牲の大きさは空前絶後のものとなりました。

この間、日赤から派遣された救護班は合計960班、救護員数33,165人にのぼりました。

千葉県支部では、救護班20個班、救護員447人を派遣しました。



(救護活動の実際)

日赤救護班の行動範囲(派遣先)は、戦局の推移とともに、北満の極寒地から南太平洋のジャングル地帯に及びました。いたるところで、赤十字旗のもと傷病兵士や一般人(捕虜・現地住民含む)の救護活動にあたりました。

救護員は、戦争と派遣先の気候などによる過酷な悪条件の中、食料事情の悪化と相まっても、ひたすら傷病者の救護に精魂を傾けました。

その陰で結核や疫病に倒れ、あるいは極度の疲労で絶命する救護員もあり、ジュネーブ条約で守られるべき救護員周辺への機銃掃射、空襲・魚雷攻撃など、多くの犠牲者が出たことも歴史上の事実となっています。



(殉職した救護員)

前出のジュネーブ条約によって、交戦中には攻撃されないはずの病院船、野戦病院が錯綜する情報の中誤認され、思いがけない攻撃を受けることもありました。

不幸にも銃撃や病に倒れた救護員は、日赤全体で1,018人の救護員が尊い生命を失いました。千葉県支部から派遣された447人のうち18人が殉職しました。